まったく表現すると云うことは、
同じ場所の右と左の行き来、右往左往でしかないね。
あっちやこっちやそっちでさえない、ただ右往左往。
よくもまあ飽きないで。
左に対しての右、右に対しての左、これだけの構造をわかれば、
その二つをつないで道が通る。つまり、それだけのことを言いたい。
ほぼ全てのすれ違い、つまりただの誤解は、
この構図に下と上とか善とか悪という、
意味を別軸に持った概念を当てはめてそれに影響されてしまうところからきてるともいえる。
もう開き直ってとびきりめんどくさくまとめてやったぞ!
今夜はおもいやり薄めだ、こんにゃろう。シンボルエンカウントは優しさだと?そんなことしるかい!
ランダムエンカウントで突き進んでやる!
全部を貫く本質を語る際に本質を貫いて中間に偏ると本質抜けちゃうんだよ。
な実例記事。
人間3次元までの頭しかもってないんだなと実感する。
実、実、それは種。
あ、この記事の構造、大学の卒制とにているな。
・・・・
しゃべっていると、いつもね、ほんといつも、
対極にある敵になりうる考えのことが気になってまってね、
こんなこと言っていて正しいのだろうかと思うわけですよ。
もうちょっとややこしく言うと、
話している相手がおおよそ自分と同じ考えの人であろうと、
実際その人が違う意見を多く持っていそうなひとであろうと、
じぶんで勝手に、それ以上もの考え得るいろんな対象をひきあいに出してきて、
それらを否定することでこの自分の意見を成り立たせたいと思っている
わけではないのにそんな考え方いつのまにかしてなかったかなあって気にする。。
つまりは自分の意見はただ単に自分の意見だといういいかたが、
なかなか簡単には言えないなあって感じながら表現することになる。
そうした結果、
けっきょく口からでてくる自分の答えというのはその時によってちがってくるわけです。
ぐらついています。
正確に自分の心を反映できているのか?という意味でぐらついているんじゃなく、
うまく表現できればできるほど、あっちやこっちどっちつかずでぐらつくのです。
表現の実現例は2種類、ぐらつかなかったか、ぐらついたか。
自分が話し始めたときに立っていたところの意見を
どんな過程があったにせよ最後までもっていったものなのか、
話している間に揺れ動いて新しい自分や確信の持ててないことも含もうとしたり
昔の自分の意見も考慮して組み立てている途中のことをいったものなのか、
この2種類のどちらかを結果としてはき出すことになります。
できるだけただしいことを言おうと自分の意見を新鮮に言おうとすればするほど、
どちらものパターンを引くことになりぐらつかなかったりぐらついたりしますが、
つまりぶれぶれです。
あの太郎さんのすごいのはぶれてないところですが、
それは計算もなく人間としての正直さみたいなところをひたすら追求したからというのは
直接はかんけいなくて、むしろぶれている部分をひたすらうそでぬりかためる覚悟をもっていた
からだといえますが、この話は余談ですし人のことはよくわからないのでやめておきます。
表現の幹は沈黙であり、
現象はただ枝葉であってたっくさんさまざまあるなあっていうような、
いつかむかしほぼ日で読んだ元は吉本さんの言葉が、
やっとこれらの問題を根本的なところでいってくれてるって、
ひとつ解決してくれた気がしましたよ。
言葉の幹は沈黙、は、万能に使える。
ぼくの言いたいことなんてのは、沈黙の中にあるんす。無いかのように、あるんす。
それらがその時の話の流れやら、相手の言っていることとかや、環境とかの条件で、
ぽっと数分前には予期できぬ現象として現われるんす。
自分の意見?いやいや、そうだけども、ぜんぶには責任なんてとうぜんもてないすよ。
そのあなたに見せたのは葉っぱですから。ぼくだってへーって気持ちで眺めてますよ。
自分の意見をいいたいけどぜんぶ自分のはからいではない。
それはひとつの要素の結果でしか無くて、責任を持つには外的要因も含んだ全部の要素を
じぶんだというしかなくなってくる。だから責任という概念は非常にわかりづらいので好きじゃない。
ここのところを中間といいたかったんだ。
なんでもかんでも真ん中を選びたいとか言ってたときもあったけど、
これは希望ではなく、いちおうぼくなりに、仕組みに乗っかりたいって意味でしかない。
計らいと自然の交差点が、動きになるっていうしくみ。
今この瞬間も言葉で説明する以上ひとつの方向しか見えてないけどさ、、そういうことなんだよ。
今言ったように、会話の時もやし、作品見るときも、人と付き合うときは、
現象を見るしかないわけで、そこは自分にとっちゃそんなに重要なはずじゃないんですよ。
中身とちがうから。でも中身はもう幹にあるんだからさ、心配になるのは、葉っぱであって、
だからニュアンスにこそ気をつけろといいたいのね。これはどっちかというと現実の視点。
この部分だけをまた言葉を換えて説明してみると、
所詮、表面的に言葉の違いを責め合っているのが議論であって、
はっぱつまり言葉の世界でしか争いは起きない。
でもそのあらそいをどうにかするのも言葉でしかできないからさ、
っていうまったくもってふつうなはなしやけどもね。
ひととしゃべっていたりとか、ひとの考えを見たり聞いたりするとさ、
「そんなこと、ぼくだってもう考えてた!」みたいなことを頻繁に思うわけです。
過去にそう考えたことあるかないか実際にゃわからんけども、
素直にそう感じるわけです。
ちょっと頭のいい友達、知識人、歴史の偉人などなどが言っていることや教えていることは、
もうとっくに知っているし考えれているわけです。そのとおりですよ。
へーじゃなくて、そうなんだようん、って思うてことは、そういうことです。
そこで見ていることは紛れもなく幹の部分への共感だから、曖昧な形のまま重なるのです。
ただ姿形は自分がもっていない葉っぱの形をしている、ということで。
あといくつか、このところの関係しやすそうなメモを載せておきます。
ちょっと自分の意見ぽい内容。
・ぼくの、思ったことを流れるままに書きました。
ニュアンスといってもいい、
落としどころといってもいい、
それがまず、第一印象であって、
デッサンの公式(人にどう見られたいかどうのこうの)
にあてはめても、もっとも重要なところ、
ものごとの入り口、表層部、皮、手、
そのぶぶんのこだわり。
かっこいい、におとしこむのか、
ハイクオリティにおとしこむのか、
いやいや、はなしことばのように、
たくさんの意味でとらえることができる、
におとしこむのが、いちばんいい。
そう思うのは、はばがあって、まちがってなくて、
みんなにあてはまるという正しさがいいっていうんじゃなくて、
つかえる、からいい、とおもうところがあるわけで。
気にする、のがきほんめんどくさいぼくはね、
ほんとはもう、ここにしかいみのない「さくひん」のことをいうの、
もういやなんですよ。
・責任がいらない世界。
作品づくりも、90%自分のはからいじゃない、といいたいもの。
人のにちょっかいだしたり、
既製品をカスタマイズしたり、
その行動をきりとって説明すると、そのニュアンス調節は、
オリジナルみたいなもんになる。なんでもそう。
そざいとか、なんでもいい。
手を加える。
余分をつけたす。って行動。
そざいとしてやきものがいいのは、
いっけん1から作るに主に原因があるようやけど、
とちゅうをやってくれる、ってところもとてもいい。
1からものごとをかんがえるには人間なんて、
力がたりない。ほとんどをひとにまかせなければ。
・いいきることのメリット、デメリット。
○じっさい役に立つことがある。×メリットがこれしかない。
だから言い切る当事者になるには勇気がいるんだ。
今年のテーマは気遣いです。
つかれたー。おわり!
追記:親友くんから電話かかってきてしゃべっていたら、
彼はまさに葉っぱだけを見る能力にものすごく長けている人だと気付いた。
すごい!バカ素直!