2011年 04月 10日
自分を棚に上げるつまらないしいくん、
という一面は表にだしたくないにせよ自分の中にはすくなからずあるわけで、
そういう「つまらない一面」の絶対面積が、ここ最近増えてきている気がする。
「つまらない一面」言い換えると「浅いところの自分」が動くようになってきた。
生の言葉の行き来のなかでそういうものは育つんでしょうね。
ツイッターやり始めてやっと、他人とのやりとりを「生」に近づけられている気もする。
ちょっと前の記事で、このブログでいうことの質はゆるやかに下がっていく。
みたいなことを書いたこともあったけど、今のぼくの基準で、
そうなってくれれば、とてもよろこばしいことやなあとおもう。
ということで、今日もはき出す、というよりしぼりだす。
昨夜のついったーでのいらいら怒りの記録。
まず勝手に転載させてもらいますけどね、バイト帰りの先輩がね、こう嘆いたの。
・あー、つかれた。さんっっっざん食べもの残しといて、なにがシメの挨拶に「がんばろうにっぽん!」だよ、ふざけんなっつの。
って。
激しく共感したよ。
そのまたちょっと前(震災後)に同級生が同じようなバイトの経験を叫んでいたこともあった。
そのときも激しく同意した。
ぼかあそんな怒りの言葉をみてここちよくなってまった。
論理がとおっとるからというより単純にそこにおなじきもちを見つけたから。
話を先輩のつぶやきに戻すけど、
この件の感想は、やっぱりね、かっこつけていうようやけども、かなしい、んですよ。
見えちゃいない人々をみちゃうと、かなしい。
食べれない人想像しちゃってもかなしいし、
さらにそれを捨てるわしたち店員はまたかなしい。
まるでわかっていない。
じぶんの今現在の姿をみれてもいないくせに、ただしいことなど口に出せるはずがない。
そんなところを論点に怒る、怒る、正しいことを内に思う、ことで、
僕らの一連のつぶやきの方向性はよかったはずなんやけどさ、
どうやらわしは根本的に怒りの矛先が若干ずれた方向いていたみたいで、
次のついーとから以下のようなつぶやきを連投した。
・自分を棚に上げて言わせてもらけどもー、見えちゃいないよ!ああ見えちゃいない。日本とかの前に、まず目の前の自分が喰うもののことくらい、ちゃんとみなさいよ!って。ふう。
・思い返してみると、ぼくのすきなひとはまず、食べ物を残さないひと、で、好きな人のなかでもゆるせんと思っちゃうとこは、食べ物を残す、ところです。
・ぼくのかたよった怒りの感情の矛先はまず、食い物への愛がたらんというところに向かってしまいます。まず、はじめに、それがある。
「食べれる食べ物をそう考えもせずに残す」
このことこと自体が、もう、だめだ。
その事実を知った我が心は悪をみる目になっていくのだよ。
理由などしらん。おのこしはゆるせない。
いま食堂のおばちゃんスピリットがぼくの心に乗り移っている。
そこそこ飲食バイトもしてきたけど麻痺しきらないんだこの感覚は、
おのこしをみるともう、理由が何だと考える前に、むなくそ気持ちが悪い。
これ食べたらおのれの胃ははち切れるのか?はち切れやがれってんだ!
そしたらさ、案外みんなもそもそもがたべもの残すことはいやみたいで、うれしかった。
とつぜんここで今日の文章を終わります。
おやすみ!
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by taraijabu4-b
| 2011-04-10 02:21